植物と昆虫 どっちがすごい?

植物や昆虫の生態や生存戦略から、人間の生き方を学ぶネイチャー・ライティング

 木の実でわかる親子関係  

秋になると、さまざまな植物が実をつけます。冬を越せない植物は種にその命を宿して、次の世代に託します。冬を越せる植物は果実をつくり、それを動物に食べてもらうことで種を遠くに運んでもらいます。

木が種を運んでもらう方法は主に3つ。風、鳥、そしてリスやネズミといった動物です。

風に運んでもらう木の実は、たとえばカエデの仲間がそうです。夏の終わりにモミジの木を見てください。グライダー型の羽をつけた実が種をつけています。街路樹としてよく植えられているスズカケノキ、いわゆるプラタナスは、柄の先に球体の実をつけます。これは一つひとつの種子が集まったもので、タンポポの綿毛のように握るとボロボロと崩れて、綿のようになって風に運ばれます。

鳥に運んでもらう木の実は、ヤマザクラがよく目にする木です。緑色から赤になり、最後は黒くなります。鳥に食べてもらうことで種を運んでもらう木の実は、実の中の種が硬い殻で覆われていて、鳥のお腹でも昇華されないようにしています。鳥の糞と一緒に排泄されると、その糞が肥料になってよく育ちます。

リスやネズミに運んでもらう木の実は、どんぐりが代表的です。アラカシやシラカシマテバシイやウバメガシといったカシの木の類や、カシワやクヌギミズナラといった広葉樹の木の実がどんぐりです。

ネズミやリスは食べきれなかったどんぐりを地中に隠すことがあります。ところが、彼らは隠したことを忘れてしまいます。忘れられたどんぐりから芽が出て育つのですね。

風や鳥、動物の力を借りて、いわば木の実は旅をしているようなものです。なぜ旅をする必要があるのでしょう?

ひとつは自分のテリトリーを広げるためです。いろいろな環境、たとえば乾燥していたり、逆に湿っていたり、暑かったり寒かったりする、さまざまなところに種を撒いておけば、急に環境の変化が起きたとき、どこかの種はダメでもどこかの種から芽が出るかもしれません。いろんなところに種を撒くほど、芽が出るその可能性は高くなります。

木の実が旅するもう一つの理由は、種から芽が出た子どもの木は、親の木と同じ場所では生きていけないからです。

子どもの木と親の木が同じ場所にいると、光の奪い合いになってしまいます。それに親の木には、病気の元になる虫や菌がいることもあります。子どもの木はそうした虫や菌からはできるだけ遠ざかるほうがいいのです。だから子どもの木は親の木からできるだけ離れて生きるほうがいいということなのです。

それに比べて人間の親子関係はどうでしょう。いつまでも親のそばにいたい子ども、いつまでもそばにいてほしい親はけっこういないでしょうか。

昔は「かわいい子には旅をさせろ」と言ったものですが、いまは「かわいい子に旅なんてとんでもない」という親もいます。

親離れできない子、子離れできない親が多い中で、植物はなんとたくましいんでしょう。子どもはできるだけ遠くに行こうとし、それを親も奨励してこそ、子どもはたくましく生き抜くことができます。木の実が風や鳥、リスやネズミの助けを借りて遠くにいくように、子どもも先生や友だち、上司や先輩の助けを借りてできるだけ遠くに行く。そんな親も子も自立したおとなの関係がいいですね。

 見えているものがすべてではない?  

「日が長くなりましたね」

春先に交わされる会話で季節を実感することはよくありますね。日頃、草木の成長で季節を感じることは少なくても、日の入りの時間は比較的わかりやすいのです。実は日の入りの時間が最も早いのは、東京では11月29日の16時28分です。この時間に日が沈む日が12月12日まで続きます。13日になると日の入り時刻は16時29分になり、だんだん日没が遅くなっていきます。冒頭のセリフは春が感じられる4月、5月によく聞かれますが、実は12月からもう「日はどんどん長くなっている」のです。

一方、日の出の時間は、1月1日が6時51分と最も遅くなり、その後どんどん早くなっていきます。冬至の12月21日ごろは昼の長さが最も短い日であるわけですが、この日は日の出が最も遅くなり、日の入りが最も早くなる日なのではなく、だんだん日の出が遅くなる途中であり、だんだん日の入り早くなる途中の日であることがわかります。日の出と日の入り時刻の相関で「最も昼の時間が短い」日になるのが、冬至というわけです。

これは夏至にも言えます。夏至はだいた6月21日ごろですが、6月上旬に最も日の出が早くなり、6月下旬に最も日の入りが遅くなります。

というわけで、夏至の時期に最も昼の長さが長くなり、冬至の時期に最も昼の長さが短くなるのですが、それならなぜ気温は夏至の時に最も暑く、冬至の時に最も寒くならないのでしょうか?

最も暑い時期は気温で見るとだいたい7月下旬から8月下旬ごろ。最も寒い時期はだいたい1月下旬から2月下旬ごろ。暑さも寒さも、夏至冬至の時期と比べると1か月から2か月遅れてやってくるようです。

このタイムラグがなぜ起こるかというと、地面が温められるのに時間がかかるからです。太陽が出ている時間がどんどん長くなるにしたがって地面は温められていき、さらに太陽が真上から照らされるので、気温はどんどん上昇していきます。地上の気温は地面が温められるほどに高くなります。6月から温められた地面がピークに達するのが7~8月になるというわけです。

同じ理由で冬至のときよりも1、2か月遅れて寒さのピークがやってきます。冬至のころはまだ夏の暑さが冷めきっていないから、まだ気温はそれほど低くならないということです。

夏至を過ぎるとどんどん昼の時間が短くなっていくのに気温は上がっていったり、冬至を過ぎるとどんどん昼の時間は長くなっていくのに気温が下がっていったりするのは不思議な感じがします。地表と地中では様子が違うのですね。

表に現れている現象とその裏で起こっていることは別だということです。夏の暑い盛りには、もう冬への下準備が進んでいるし、冬の寒さのピークには、もう夏へのカウントダウンが始まっているのです。

あらゆるものごともこれと同じで、いいことが起きてもそれは長くは続かず、その裏では悪いことが進んでいることもあります。逆に、悪いことが起きたその裏では、よいことが進んでいることだってあります。ついつい表に出てきた、見えるものばかりに目を奪われがちですが、実はその裏では次への物語が周到に用意され、着実に進展しているのです。

そう考えたら、表に出てきた、目に見える事柄に一喜一憂しないで、裏にあるものを見ようという気になります。「万物は流転する」「不常(つねならず)」と思えば、気が楽になるというものです。

 樹木の変遷から推理する日本の歴史  

いま雑誌はどこも苦戦中で、歴史雑誌も例外ではありません。その歴史雑誌は苦戦中の中でも古代史だけは人気があるといいます。古代史は文字で残っている史料がないから想像で語るしかなく、素人でも自説を展開しやすいので、在野の研究者が手を出すのだそうです。

今に残る史料として有名なのが、「魏志倭人伝」です。中国の魏の時代に書かれた歴史書の中の「倭人」、つまり日本人についての章です。魏志倭人伝は2000字ぐらいの短いもので、有名な卑弥呼のほかにも当時の日本人の生活、風俗が細かく書かれています。その中に30字程度、日本の樹木について書かれている箇所があります。

そこに出てくるのは、タブ、クスノキ、カシ類といった照葉樹です。照葉樹は葉の表面がロウで塗ったようにつるつるしている樹木のこと。具体的な樹種名としては、コナラ、カヤ、ササ、シュロ、サンショ、

ミョウガ、カエデなどの文字が見られます。

この植生に疑問を持った只木良也さんという農学博士がいます。只木さんはなぜ「松」の文字がないのかについて考えました。植物のことを書く人がマツについて知らないはずはなく、中国にも松は存在したはず。ならば、なぜマツについて書かなかったのか。只木さんは、「3世紀の日本に松はなかったのではないか」と推察します。いや、なかったというより、どこにでもある木ではなかったのではないかというのです。

その謎を解くにはマツの生態を知る必要があります。シイ、タブ、カシ類と違って、マツは痩せた土地でも生きていけます。養分に対してのストレス耐性が強いのですね。海岸沿いにマツが育っているのは、砂浜に近いような養分の少ない痩せた土地でも生きていけるからなのです。山でいえば、尾根のような乾燥地でもなんとか生きていけるのがマツです。

日本では6世紀になると、陶器を焼く窯の遺構からマツが利用されたことがわかっています。マツは燃やすと火力が強いのです。ということはつまり、3世紀から6世紀にかけてマツが次第に日本で勢力を広げていったのではないかと推察できます。

ではなぜ、それまであまりなかったマツが増えていったのでしょうか? シイ、タブ、カシ類が切られて持ち出されると、その土地は痩せていきます。落葉した葉や腐った樹木が次の世代の養分になるからです。土地が痩せていくと、これらの樹木が繁茂できなくなり、代わってマツが台頭するようになったのでしょう。

ではなぜ、シイ、タブ、カシ類が持ち出されたのでしょうか? 3世紀から6世紀の間に起こった、シイ、タブ、カシ類が持ち出されるような変化とはいったい何でしょうか?

一つは、陶器の製作です。窯で焼くのには燃料が必要です。もう一つは、鉄の精製ではなかったでしょうか。3世紀ごろには中国から鉄が入ってきていました。魏志倭人伝には「倭国大乱」という内乱が起こったことが記されていますが、これは鉄をめぐっての戦いだともいわれています。この説が本当なら、「魏志倭人伝」に「松」が見られないのも納得できます。

というわけで、3世紀から6世紀にかけて樹木の需要が増えたので、山からシイ、タブ、カシ類が持ち出されて土地が痩せ、マツがハバを利かせるようになったのではないかと推察できるというわけです。こういう視点から歴史を見るというのもなかなかおもしろいものです。それにしても、今も昔も燃料で争いが起きるのですねえ。

 生き残るための「ずらし」戦略  

小学校4年生のときの文集だったか、各クラス見開きのページに「なんでもチャンピオン」というテーマで、クラスの子一人ひとりがどんな分野でチャンピオンであるか、他の子が評価したものを載せていたのを思い出します。

ある子は「ピアノチャンピオン」、ある子は「お手伝いチャンピオン」、ある子は「笑顔チャンピオン」でした。私は誰が評価してくれたのか、「やさしさチャンピオン」でした。なんと取りつくしまのないふわっとしたチャンピオンなのでしょう。

同じ4年生でもこんな子もいるんだと思った子がいます。

山田駿佑くんです。現在、14歳の彼が小学4年生だったとき、家の前にはえていたオオバコに興味を持って研究しました。タイトルは「オオバコはなぜ道の真ん中に生えているのか」です。

彼はほかの植物と一緒にオオバコを育てながら、踏圧にどれだけ強いかを、漬物石を押し付けることで検証しました。2週間、毎日試した結果、他の植物は枯れてしまいましたが、オオバコだけは枯れるどころか生き生きしていました。

さらに彼はオオバコの種がネバネバしていることを発見します。踏まれた種が、人間や動物の足の裏にくっついて運ばれるようになっているわけです。靴の裏について運ばれた場合、どれだけ遠くまで行けるかを検証し、拡散能力を調べました。すると、なんと1キロ先まで種は落ちなかったというのです。

オオバコは、踏まれることに強くなることで、道の真ん中でも繁殖することができ、水や養分、日光を独占できることになりました。それに踏まれるという、植物にとって明らかに不合理な状況を逆手にとり、逆に種を広く拡散させることに成功したのです。

このことを知った山田君は、「自分は背が小さいけれど、それを生かすことができるんじゃないかと思って、勇気をもらいました」と、そんなことを言っていたのには大変感心しました。

競争に弱い、雑草のような植物は、真っ向勝負はしません。基本は闘わない。戦う場合でも場所をわきまえ、勝てるところだけで戦います。それがオオバコの場合、道の真ん中であったのです。

「踏まれてもへこたれないばかりか、それを逆に利用してやろう」

なかなかしたたかなやり方です。

「踏まれても踏まれても立ちあがる雑草のように」なんていうけれど、オオバコは立ち上がるような無駄なエネルギーは使いません。立ち上がるのではなく、死んでしまわないことだけを考えているように思います。そして、自分が勝てそうなところで生きていく。道の端っこではナンバーワンになれないが、人や動物に踏みつけられる道の真ん中ならナンバーワンになれる。私たち人間の生き方も、そうやればいいのではないでしょうか。

道の脇ではなく、ちょっとずらして、道の真ん中で勝負する「ずらし戦略」を使えば、オンリーワンの場所で、ナンバーワンになれるのです。オオバコはそんなことを教えてくれます。

スポーツや勉強でナンバーワンになれなくても、どこかの分野でナンバーワンになればいい――そう、私が何も個性がなかったばかりに「やさしさチャンピオン」になったように。

 ひとり勝ちは幸せか?  

ずっと勝ち続けることはどんな世界でも難しいですね。スポーツの話でいえば、古くはプロ野球巨人軍のV9というのがありました。ラグビーでは新日鉄釜石神戸製鋼のV7があります。大学スポーツでは、帝京大学ラグビー部のV9、日体大水球部は376連勝というとてつもない記録があります。

では植物の世界はどうなのでしょうか?

セイタカアワダチソウという植物がありますね。名前を知らない人でも実物を見れば、絶対に「ああ、これがセイタカアワダチソウなんだ」というと思います。それぐらいありふれていて、どこにでも生えている植物です。

このセイタカアワダチソウは北アメリカ原産の外来植物で、日本で猛威をふるっていたため、しばしばやっかいな雑草として扱われています。実は、北アメリカでは猛威をふるうといったことはなく、保護活動まで行われているほど普通の植物なのです。なぜ日本でだけ大繁殖してしまったのでしょう。

理由は、セイタカアワダチソウが根から出す化学物質にありました。その化学物質とはアレロパシーというもので、他の植物の成長を抑制するように働きます。そのため、言うなればこうした化学物質に「免疫」のない日本の植物は、見事にこの毒性物質にやられてしまい、駆逐されていったというわけです。

アメリカでは、周りの植物が、セイタカアワダチソウが出すアレロパシーの耐性を身に着けています。化学物質を防御する仕組みを発達させて、負けっぱなしにならないようにしたのです。その結果、周りの植物との力関係で、ほどよいところで調和がとれているというわけです。

しかし、日本の在来植物たちはアレロパシー耐性がなかったために、大負けしてしまっていたのです。ただ、「負けていた」と過去形になっているのがミソです。実は、最近はセイタカアワダチソウがかつての勢いがなく、それほど大繁殖しなくなってきています。ススキやオギなどの日本の野草が盛り返している箇所も少なくなくなってきています。背丈もかつては2、3メートルにもなっていたのに、いまではせいぜい1メートルか、50センチ程度で花を咲かせていたりします。

これはセイタカアワダチソウが自分の出すアレロパシーの毒におかされてしまったせいなのです。周りとの調和の中でなら、アレロパシーの自分への影響も限定的だったのに、独り勝ちしてしまうと自ら出した化学物質が自らへの毒として跳ね返ってきてしまったわけです。もしかしたら、ススキやオギといった日本の在来植物がアレロパシーの耐性を身に着けつつあるのかもしれませんが、そこはまだよくわかっていません。

いずれにせよ、一時は連勝街道を突き進むことができても、いずれはその連勝は止まってしまうということです。

栄枯盛衰は仏教の人生観ですが、セイタカアワダチソウとその周辺で生きる植物にも同じことがいえそうです。周囲に強者が表れても、自分も進化することで伍していくことができると考えれば、一時的に連戦連敗を重ねていても、それは次への進化の途上とポジティブに考えることができそうです。

逆に連戦連勝を重ねることができていてもその先で必ず負けるときが来ます。そのときでも、周囲と協調して生きることができれば、完全にいなくなってしまわないで、自分の居場所を確保して生き続けることができる。セイタカアワダチソウはそんなことを教えてくれます。

 富士山は「新しい山」

西之島がいま大変なことになっています。西之島は、東京から1000キロ以上も離れた絶海の孤島小笠原諸島の西にある小さな無人島でした。しかし、2015年になって、西之島の近くの火山口から溶岩が噴出、新しく島ができました。それだけでも驚くべきことなのですが、新しい島ではマグマがどんどん流出し、ついには西之島と合体。面積をさらに拡大させ、面積の単位(?)としてよく使われる「東京ドーム」では足りなくなって、「ディズニーランド5個分」と表現されています。

西之島は3000メートル級の火山の頂上が頭を出したもので、いわば「氷山の一角」みたいなもの。海水の下に膨大なエネルギーが内包された火山があったのです。よく知られているように、日本列島の周辺では4つの大陸プレートがひしめきあっていて、プレートとプレートがぶつかるところではこのような火山ができやすいのです。

現在は休火山である富士山もこのようにしてできました。富士山ができたのはだいたい1万年前と推測されています。地球の歴史からいうと、1万年前というのは相当「最近の」話といえます。だから、富士山は「新しい山」といえるのです。

富士山が新しい山であることは、高山植物が少ないことからも見てとれます。高山植物とは、高木が生育できなくなる森林限界を超えてなお生育している植物のこと。ハイマツ、コマクサ、ワタスゲなどです。富士山に高山植物が少ないのは、それは富士山が氷河期のあとにできた山だからです。

通常、高山植物が高山で暮らしているのは、もとは氷河期にやってきたものが取り残されたものです。氷河期になっていく過程で、緯度の高いところ(つまり寒い地域)を好む植物は、どんどん赤道に向かって進出し、勢力範囲を広げます。そして、あるときには暖かい場所を好む植物を駆逐し、日本列島を覆い尽くします。

しかし、氷河期が終わって地球がだんだん暖かくなると、高山植物は、今度は北に追いやられていきます。その過程で、高山植物は気温の低い高山に逃げ込みます。周りは暖かい場所を好む植物に取り囲まれ、寒い場所を好む植物は高地にだけ取り残されてしまうのです。そうして、氷河期にやってきたのちに、取り残されてしまったのが高山植物なのです。

富士山は生まれてからまだ日が浅いので、まだ氷河期を経験していないため、高山植物が少ないというわけです。ただし、高山植物がまったくないわけではなく、少しはあります。それは、風や鳥が運んだ種から発芽したものと考えられています。

1万年前にできた山でもまだ新しいだなんて、地球のスケールはすごいですね。最近は富士山の噴火が近づいているという専門家もいます。それは10年以内に起こるかもしれませんし、何百年単位で起こるのかもしれません。

富士山が噴火してマグマが噴出すれば、西之島のように山の形が変わってしまうかもしれません。もしかしたら、富士山が今の形をとどめているのも、数千年の間のことだけなのかもしれません。あんな美しい姿を拝めるのも、そんな時期に生きられた幸運といえます。多摩地区からは冬のある時期だけ、富士山に夕日が落ちていく光景「ダイヤモンド富士」が見られます。それも今だけの一瞬のなせる業なのです。

あえて競争の少ないところで生きる  

JR高尾駅から徒歩10分のところに、多摩森林科学園という施設があります。サクラなどの生態を研究する施設で、見本のため植林した木もありますが、高尾山周辺の自然の植生を見ることができる場所でもあります。

秋になると、その多摩森林科学園の散策路にガガイモ科のキジョランが洋ナシのような形をした、13~15センチの実をつけるのが見られます。12月ごろになると、実がはじけて中から綿毛が飛び出します。綿毛が垂れ下がった様子が、まるで白髪の老女を思わせることから、「鬼女蘭」の名前があります。

さて、このキジョラン、虫にとってはやっかいな存在です。葉に毒を持っているため、虫はこれを食べることができないからです。

ところが、このキジョランの葉を唯一食用にしている昆虫がいます。それが蝶の一種、アサギマダラです。アサギマダラは冬でも枯れないキジョランの葉に卵を産み付けます。卵からかえった幼虫は、すかさずキジョランの葉を食べて大きくなるというわけです。

「でも、このアサギマダラの親はひどいものだね。子どもに毒を与えるんだから」。いえいえ、食べても大丈夫だから子どもに与えるのです。アサギマダラはキジョランの毒でも死なない耐性を持ち合わせているのですよ。

アサギマダラの幼虫は、キジョランの葉の裏を、円を描くように食べていき、次にその円の内側を食べていきます。そうして、毒の経路を遮断してから葉っぱを食べているのでしょう。少しの毒ならば、平気な体をつくっていったのです。

なぜ危険を犯して毒を食べるのか。理由の一つは、他の昆虫と競合することがないため、食料確保に有利だということ。もう一つは、自分の体を毒化させることで、鳥などの天敵に食べられにくくなるということです。

それをわかって親は子どもにあえて毒を食べさせているのです。子どもに安楽をさせるだけが親の務めじゃないのですね。天敵から守り、食べ物の心配もしたうえで卵を産み付ける場所を考えているのです。

子育てしない昆虫は、一見、薄情に思えるのですが、実は子どもへの愛情をこんなところに注いでいるのですね。

それにしても、アサギマダラは、生き延びるための周到な手段を持っているのですね。ビジネスやスポーツで勝つための戦略にも応用できそうな気がします。つまり、「競争の少ないところへ進出」し、「そこで身に付けた技術をオンリーワンに」するということです。毒というのは、一見、誰にとっても悪であるように見えます。でも、毒と薬は量しだいで、善と悪の両方の側面を持つものです。だから、毒であっても少量ならば、自分の長所や利点にすることができるということです。

生態観察のために、アサギマダラの羽にペンでマーキングしたところ、1000キロ、2000キロと離れた場所で見つかったことが研究者から報告されています。1日に200~300キロも移動するというのです。あの小さな体のどこにそれほどのエネルギーが蓄えられているのでしょう。

なぜそんなに大変な思いをしてまで移動するのか、本当のところはよくわかっていません。赤と褐色と浅葱(あさぎ)のまだら模様を持つ蝶の一生から、私たちが学べることがこれからも見つかることでしょう。