植物と昆虫 どっちがすごい?

植物や昆虫の生態や生存戦略から、人間の生き方を学ぶネイチャー・ライティング

 樹木の変遷から推理する日本の歴史  

いま雑誌はどこも苦戦中で、歴史雑誌も例外ではありません。その歴史雑誌は苦戦中の中でも古代史だけは人気があるといいます。古代史は文字で残っている史料がないから想像で語るしかなく、素人でも自説を展開しやすいので、在野の研究者が手を出すのだそうです。

今に残る史料として有名なのが、「魏志倭人伝」です。中国の魏の時代に書かれた歴史書の中の「倭人」、つまり日本人についての章です。魏志倭人伝は2000字ぐらいの短いもので、有名な卑弥呼のほかにも当時の日本人の生活、風俗が細かく書かれています。その中に30字程度、日本の樹木について書かれている箇所があります。

そこに出てくるのは、タブ、クスノキ、カシ類といった照葉樹です。照葉樹は葉の表面がロウで塗ったようにつるつるしている樹木のこと。具体的な樹種名としては、コナラ、カヤ、ササ、シュロ、サンショ、

ミョウガ、カエデなどの文字が見られます。

この植生に疑問を持った只木良也さんという農学博士がいます。只木さんはなぜ「松」の文字がないのかについて考えました。植物のことを書く人がマツについて知らないはずはなく、中国にも松は存在したはず。ならば、なぜマツについて書かなかったのか。只木さんは、「3世紀の日本に松はなかったのではないか」と推察します。いや、なかったというより、どこにでもある木ではなかったのではないかというのです。

その謎を解くにはマツの生態を知る必要があります。シイ、タブ、カシ類と違って、マツは痩せた土地でも生きていけます。養分に対してのストレス耐性が強いのですね。海岸沿いにマツが育っているのは、砂浜に近いような養分の少ない痩せた土地でも生きていけるからなのです。山でいえば、尾根のような乾燥地でもなんとか生きていけるのがマツです。

日本では6世紀になると、陶器を焼く窯の遺構からマツが利用されたことがわかっています。マツは燃やすと火力が強いのです。ということはつまり、3世紀から6世紀にかけてマツが次第に日本で勢力を広げていったのではないかと推察できます。

ではなぜ、それまであまりなかったマツが増えていったのでしょうか? シイ、タブ、カシ類が切られて持ち出されると、その土地は痩せていきます。落葉した葉や腐った樹木が次の世代の養分になるからです。土地が痩せていくと、これらの樹木が繁茂できなくなり、代わってマツが台頭するようになったのでしょう。

ではなぜ、シイ、タブ、カシ類が持ち出されたのでしょうか? 3世紀から6世紀の間に起こった、シイ、タブ、カシ類が持ち出されるような変化とはいったい何でしょうか?

一つは、陶器の製作です。窯で焼くのには燃料が必要です。もう一つは、鉄の精製ではなかったでしょうか。3世紀ごろには中国から鉄が入ってきていました。魏志倭人伝には「倭国大乱」という内乱が起こったことが記されていますが、これは鉄をめぐっての戦いだともいわれています。この説が本当なら、「魏志倭人伝」に「松」が見られないのも納得できます。

というわけで、3世紀から6世紀にかけて樹木の需要が増えたので、山からシイ、タブ、カシ類が持ち出されて土地が痩せ、マツがハバを利かせるようになったのではないかと推察できるというわけです。こういう視点から歴史を見るというのもなかなかおもしろいものです。それにしても、今も昔も燃料で争いが起きるのですねえ。